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大阪家庭裁判所 昭和50年(家)3586号 審判 1977年3月22日

申立人 伊志嶺勝(仮名)

相手方 長谷川信夫(仮名)

事件本人 長谷川政子(仮名)

主文

相手方は申立人に対し、申立人が相手方のために立替えて支払つた事件本人の昭和三四年六月から昭和五〇年一月までの間の扶養料計金一五〇万七、九一五円を支払え。

理由

第1申立の趣旨と事件の実情

申立人は、申立の趣旨として「相手方は申立人に対し、申立人が立替えた事件本人の扶養料金等二八九万〇、四〇九円を支払え」との審判を求め、事件の実情として、次のとおり主張した。

1  相手方は昭和三一年一月一二日事件本人と婚姻し、両者の間に三男二女が出生した。

申立人は事件本人の弟である。

2  事件本人は昭和三四年三月精神病に罹り、堺市○○○病院に入院したが、同年六月退院した。その直後申立人は相手方の要請に基づいて、事件本人を沖縄に住んでいた申立人の許に連れ帰り、医療に努めた結果、回復したので、同年一二月相手方の許に帰らせた。

3  相手方は昭和三七年七月事件本人の病気がまた悪くなつたからと云つて、事件本人を何の前ぶれもなく乳児の二女栄子とともに申立人の許に送り帰した。申立人は事件本人を一週間程、△△病院に入院させ、その後は申立人宅において療養させた。

4  相手方は昭和三八年七月事件本人の帰宅を求めて来たので、旅費等をすべて、申立人が立替えて帰宅させたが、昭和三九年八月申立人に対し「政子××丸に乗つた。迎え頼む」との電報を打ち、一方的に政子を申立人の許に送り帰した。申立人はやむなく昭和四四年七月事件本人を相手方の許に帰らすまで、××病院に入院させたり、通院治療させたりした。

5  相手方は昭和四四年七月以降事件本人に必要な医療を加えないばかりでなく衣食も満足に与えず虐待し、生命に危険が生じたので、申立人は相手方と協議のうえ、事件本人を昭和四六年七月二四日神戸市○○区×××通○丁目○の○所在の△△サナトリウムに入院させた。

6  相手方は、上記病院に一度も面会に来ず、仕送りもしないので、申立人は昭和四九年一二月一九日事件本人を退院させて申立人の郷里である沖縄に連れて帰り、爾来今日まで申立人において医療及び扶養を続けている。

7  上記△△サナトリウムに入院中の昭和四七年九月一六日から昭和四九年一二月一九日までの間は医療保護を受けていたので申立人は金銭上の立替えをしなかつた。

8  事件本人の前記△△サナトリウムにおける入院治療費、沖縄における医療費・生活費は上記7を除いて、すべて相手方が夫として当然負担すべきものを、相手方の要請に基づいて、申立人が立替えて支払つたものである。相手方は十分支払能力を有するのに、全期間を通じて昭和四二年六月申立人に対し事件本人の扶養料として一万円を支払つただけである。

9  申立人が事件本人の生活費として立替えた額は次のとおりである。

労働科学研究所の昭和二七年の軽作業壮年男子の最低生活費は月額七、〇〇〇円であるから、これに主婦の消費単位である八〇%を乗じて算出された五、六〇〇円が昭和二七年における主婦の最低生活費である。これを各年度の消費者物価指数によつて計算すると、

昭和三四年   六、三八九円

〃 三七年   七、四五一円

〃 三八年   八、〇一三円

〃 三九年   八、三一六円

〃 四〇年   八、九五八円

〃 四一年   九、四一四円

〃 四二年   九、八七八円

〃 四三年 一万〇、三〇二円

〃 四四年 一万〇、八五〇円

〃 四六年 一万二、三九二円

〃 四七年 一万二、九五三円

〃 四九年 一万八、〇一〇円

である。これを申立人が事件本人を扶養した期間によつて計算すると

昭和三四年三月~同年一二月   (九か月)   五万七、五〇一円

〃 三七年七月~昭和三八年七月 (一三か月) 一〇万〇、七九七円

〃 三九年八月~〃四四年七月  (六〇か月) 五八万〇、一五四円

〃 四六年七月~〃四七年九月  (一四か月) 一七万八、五三七円

〃 四九年一二月~〃五〇年一二月(一二か月) 二一万六、一二〇円

計 一一三万三、一〇九円

となるが、これは最低生活費であつて、妥当な額はこの二倍と思われるので、これに二倍すると二二六万六、二一八円となり、これが、申立人が立替えた事件本人の生活費である。

10  申立人が立替えた事件本人の医療費等は次のとおりである。

イ  沖縄における入院治療費等 一八万〇、〇〇〇円

ロ  △△サナトリウム入院費  二五万四、一九一円

ハ  その他          二〇万〇、〇〇〇円

計 六三万四、一九一円

11  そこで、相手方は申立人に対し、上記9及び10の立替金合計金二九〇万〇、四〇九円から、相手方が支払つた一万円を差引いた残金二八九万〇、四〇九円の支払義務がある。

第2適用法令

申立人の本籍地である沖縄県は、平和条約発効の昭和二七年四月二八日以来、日本復帰の昭和四七年五月一五日の前日までの間においては、アメリカ合衆国の施政権に服していたものであるから、昭和三二年一月一日以降においては、本件に関係のある日本民法等がそのまま同じ文言をもつて施行されていたとはいえ、事件本人や相手方の本籍地である大阪府とは法域を異にしていたものということができる。扶養の義務は法例二一条によつて、扶養義務者の本国法によつて定められるのである。本件において問題とされているのは、昭和三四年以降の扶養料の立替金についてであるから、上記施政権がアメリカ合衆国にあつた期間も含まれている。施政権が日本に返還された以降の分については、日本の法によることはいうまでもないところであるが、それ以前の分については、同文とはいえ、観念的には、申立人については沖縄県の法が、相手方については日本の法が、それぞれ適用されるものといわなければならない。(然し、文言を同じくするものであるから以下に説示する法条は日本のそれによるものとする。)

第3本件の性格

本件は上記申立の趣旨及び事件の実情その他調査の結果からして、申立人が民法八七八条及び同八七九条に基づいて、事件本人の過去の扶養料についてではあるが扶養義務者である申立人と相手方との間において扶養の順序並びに程度についても当裁判所の判断を求め、(若し申立人が相手方に対し、契約に基づいて、申立人が支出した事件本人の扶養料を請求するのであれば、それは訴訟事項であつて、家庭裁判所の権限外の事項である)。家事審判規則九八条四九条に則つて、相手方に対し、立替扶養料の支払を命ずる申立をしたものと解する。

第4事件の経緯

申立人は昭和五〇年一二月二五日当裁判所に対し、上記申立をした。当裁判所は、昭和五一年二月二日これを当裁判所の調停に付し調停が終了するまで審判手続を中止する旨の審判をした。当裁判所調停委員会は昭和五一年三月三日から同年五月一〇日までの間四回に亘つて調停を試みたが、当事者間に合意が成立する見込みがなかつたので、不成立として調停事件を終了させた。そこで本件審判手続が再開されたものである。

第5調査の結果によれば、親族関係について次の事実を認めることができる。

1  申立人は事件本人の弟である。事件本人の父は昭和一八年九月六日死亡したが、母光(明治四一年七月三〇日生)は生存しており、事件本人の兄弟姉妹は、申立人の外に、姉幸子(大正一五年三月一四日生)、妹良子(昭和九年一二月二四日生)、弟正利(昭和一三年四月一二日生)がいる。

2  相手方と事件本人とは昭和二九年相手方の肩書住所である大阪市○○区××△丁目△番△△号で同棲を始め昭和三一年一月一二日大阪市○○区長に対し婚姻の届出をして夫婦となつた。当時は相手方の父信彦、母ナツも同居していた。相手方と事件本人との間に、昭和三〇年八月一日長男信茂が、昭和三一年九月二日二男信武(昭和三二年三月一四日死亡)が、昭和三二年一二月二四日三男信宗が、昭和三五年三月一九日長女ノブ子が、昭和三六年一一月九日二女栄子が各出生した。

父信彦は昭和三五年に、母ナツは昭和四六年七月四日に死亡した。

第6上記親族関係によれば、申立人は事件本人の弟であるから、民法八七七条によつて、事件本人を扶養する義務があるものということができる。相手方は事件本人の配偶者であるから、民法七六〇条によつて事件本人を扶養しなければならないものである。事件本人に対する申立人と相手方との扶養義務の順序は、相手方が事件本人の配偶者であるとの身分関係から申立人に先んじて扶養義務を尽さなければならないものと解する。然しながら、相手方がその負担能力に拘らず、事件本人が必要とする経費のすべてを負担しなければならないものではなく、相手方の負担額は、その資産収入等から考えられる最大限度の額に止まり、それを超える部分は申立人等の扶養或は公的扶養に待つほかはないものと解する。

第7調査の結果によれば、次の事実が認められる。

1  事件本人と相手方とは、共に沖縄県××郡○○○村の出身で、事件本人の祖母と相手方の母ナツとは姉妹の関係にあつたので、事件本人と相手方とは昭和二九年見合の上、結婚することとし、前記のように大阪市○○区××△丁目△番△△号の相手方の住所で同棲を始め、昭和三一年一月一二日婚姻の届出をした。事件本人は三男信宗の出生後、精神病にかかり、昭和三四年三月から同年六月まで堺市の○○○病院に入院した。

2  事件本人は昭和三四年六月から同年一二月までの約六か月間那覇市××で、申立人やその家族と同居し、申立人の扶養を受けまた申立人の負担で精神病の医療を受けた。

事件本人は同年一二月相手方の許に帰つた。

3  事件本人は二女栄子が出生した後、再び精神病が悪化したので、昭和三七年七月栄子を連れて、沖縄県の申立人の許に赴いて昭和三八年七月まで約一二か月間申立人方に滞在して、その扶養を受けた。事件本人はその間一週間程、精神病治療のために、那覇市△△所在の△△病院に入院し、同入院前及び退院後も通院して治療を受けた。その費用はすべて申立人が負担した。

4  事件本人は昭和三八年七月相手方の許に帰つたが、昭和三九年八月再び那覇市○○×××番地上所在の当時の申立人方に来て、昭和四二年八月まで同所で申立人の妻子と同居し、その後昭和四四年七月、相手方の許に帰るまで、同市××の近くに事件本人の母光が間借したので、同所で光と共に暮した。その間通じて約六〇か月間申立人の扶養を受けた。また、その間事件本人の精神病が重くなつたので、事件本人は、申立人の負担で、昭和四一年四月から約六か月間、××病院に入院し、その入院前及び退院後も通院して治療を受けた。

5  事件本人は昭和四六年七月二四日から昭和四九年一二月一九日までの間、精神病治療のため、神戸市所在の△△サナトリウムに入院した。申立人はその入院当初から昭和四七年九月末日までの入院費用を負担した。昭和四七年一〇月一日以降は医療扶助を受けたので、申立人の立替費用はない。(申立人は昭和四七年九月一六日から医療扶助を受けた旨主張するが、△△サナトリウムからの回答によれば、事件本人が医療扶助を受けたのは昭和四七年一〇月一日からであるから、申立人は昭和四七年九月末日までの入院費用等を負担したものと認めるを相当とする)。

6  事件本人は昭和四九年一二月一九日△△サナトリウムを退院後、直ちに、申立人肩書住所所在の申立人方に赴いて、同所に約三か月間滞在していたが、その後、事件本人の肩書住所の近くで間借して、同所に移転し、昭和五〇年五月以降は申立人が買受けた事件本人肩書住所々在の家屋に移り、同所で、母光と共に暮している。この間事件本人が申立人から扶養を受け、また医療費の支出を受けたのは、昭和四九年一二月から、昭和五〇年一月にかけての約一か月間で、それ以降は医療扶助を含む生活保護を受けるようになつた。

7  事件本人は何らの資産なく、また病身のため、昭和三四年以降労働能力がなく、従つて収入能力もない。

第8上記認定事実によれば、事件本人は昭和三四年以来扶養を必要とする状態にあつて同人は那覇市において申立人から扶養され生活費の支給を受けた期間は次のとおりであるということができる。

昭和三四年六月から同年一二月まで 六か月

(計算の便宜上昭和三四年六月一日から同年一一月末日までとする)

〃 三七年七月から同年一二月まで 六か月

(計算の便宜上昭和三七年七月一日からとする)

〃 三八年一月から同年七月まで  六か月

(計算の便宜上上記のとおり昭和三七年七月一日からとしたので昭和三八年六月末日までとする)

〃 三九年八月から同年一二月まで    五か月

〃 四〇年一月から同年一二月まで   一二か月

〃 四一年一月から同年一二月まで   一二か月

〃 四二年一月から同年一二月まで   一二か月

〃 四三年一月から同年一二月まで   一二か月

〃 四四年一月から同年七月まで     七か月

〃 四九年一二月から同五〇年一月まで  一か月

(計算の便宜上昭和五〇年一月一日から同年同月末日までとする)

計 七九か月

事件本人が△△サナトリウムに入院した昭和四六年七月二四日から医療扶助を受けた昭和四七年一〇月一日の前日までの生活費は、申立人請求の入院費用中に含まれるので、上記入院期間は生活費の支給を受けた期間としては計上しない。

第9上記各期間における事件本人の生活費を直接認定するに足る明確な資料はないので、統計資料から算出するのほかはない。

労働科学研究所の調査結果によると、昭和二七年における東京都の軽作業に従事する六〇歳未満の既婚男子の最低生活費は月額七、〇〇〇円であり、同主婦のそれはその八〇%即ち五、六〇〇円である。東京都区部における消費者物価指数は昭和四五年を一〇〇とすれば、昭和二七年は四六であるから、昭和四五年における東京都区部の主婦の最低生活費は

5,600円×(100/46) = 12,174円である。

沖縄県企画調整部統計課の調査結果による那覇市における物価指数の推移は、

年度

二七

三四

三七

三八

三九

四〇

四一

四二

四三

四四

四五

四九

五〇

指数

三五・六

三二・二

三四・二

三五・一

三六・一

三六・七

三八・八

四一・一

四二・〇

四五・七

四七・七

八八・一

一〇〇

であり、これは昭和五〇年を一〇〇としたものであるから、昭和四五年を一〇〇とすれば、次のとおりとなる。

年度

二七

三四

三七

三八

三九

四〇

四一

四二

四三

四四

四五

四九

五〇

指数

七四・六

六七・五

七一・七

七三・六

七五・七

七六・九

八一・三

八六・二

八八・一

九五・八

一〇〇

一八四・七

二〇九・六

総理府統計局発表にかかる昭和四九年度における消費者物価指数の地域差指数は東京都区部を一〇〇とすれば、那霸市は九六・四であり、昭和四五年度における東京都区部の消費者物価指数を一〇〇とすれば昭和四九年度は一五二・七であるから、これらの率によつて、上記那霸市における物価指数を換算すれば

年度

二七

三四

三七

三八

三九

四〇

四一

四二

四三

四四

四五

五〇

指数

五九・五

五三・八

五七・一

五八・七

六〇・三

六一・三

六四・八

六八・七

七〇・二

七六・四

七九・七

一六七・一

となり、これが東京都区部における昭和四五年度の物価指数を一〇〇とした場合の那覇市における物価指数である。

東京都区部における昭和四五年の主婦の最低生活費は前記のとおり月一万二、一七四円であるから、これを上記表に基いて那覇市における各年度の最低生活費を算出すると次のとおりである。

昭和三四年   六、五五〇円

〃 三七年   六、九五一円

〃 三八年   七、一四六円

〃 三九年   七、三四一円

〃 四〇年   七、四六三円

〃 四一年   七、八八九円

〃 四二年   八、三六四円

〃 四三年   八、五四六円

〃 四四年   九、三〇一円

〃 五〇年 二万〇、三四三円

これは労研の最低生活費である。ちなみに、昭和五〇年四月の一級地の四五歳女の第一類生活扶助額は一万四、三三〇円であり、その二倍は二万八、六六〇円であるから、本件において標準家庭の最低生活費は上記各金額の一・五倍とするのが相当である。

そうすると、上記金額にそれぞれ一・五倍すれば、次のとおりである。

昭和三四年   九、八二五円

〃 三七年 一万〇、四二七円

〃 三八年 一万〇、七一九円

〃 三九年 一万一、〇一二円

〃 四〇年 一万一、一九五円

〃 四一年 一万一、八三四円

〃 四二年 一万二、五四六円

〃 四三年 一万二、八一九円

〃 四四年 一万三、九五二円

〃 五〇年 三万〇、五一五円

事件本人は昭和五年三月二四日生の主婦であるから、同人が申立人から扶養を受けた上記の期間の生活費は上記の割合によるもので、申立人は、これを負担したものということができる。

これを、事件本人が申立人から扶養を受けた月別に記載すると別紙計算表中生活費の欄記載のとおりである。

第10申立人は、事件本人のために沖縄における医療費として金一八万円を支出したと主張している。事件本人は昭和三四年六月から昭和五〇年一月までの間精神病に罹患しており、申立人に扶養されていた上記七九か月のうち、同疾病を治療するため△△病院や××病院に入院し、その余は通院したものであるが、同治療に要した費用の領収書は提出されていない。そこで、上記金額を七九か月で割れば二、二七八円となつて三八円余る。

事件本人が上記七九か月の間一か月平均二、二七八円以上の治療費を要したことは一件記録によつて認めることができる。そして、上記期間内において何時上記医療費一八万円を支出したかを認めるに足る証拠はないので、上記七九か月間に別紙計算表中医療費の欄記載のとおり毎月二、二七八円(最終の昭和五〇年一月にはこれに三八円を加えて二、三一六円)宛が事件本人の医療費として申立人によつて支払われたものとして計算するよりほかはない。

第11申立人は事件本人を△△サナトリウムに入院させ、そのために二五万四、一九一円を支出した旨主張するので検討する。

事件本人が昭和四六年七月二四日から昭和四九年一二月一九日まで神戸市所在の△△サナトリウムに入院し、申立人が入院当初から昭和四七年九月末日までの入院費用を負担したことは前に認定したとおりである。昭和四六年七月二四日から昭和四七年九月一五日までの入院費用等の経費については、△△サナトリウム発行の医療費請求書、小遣領収書等の写が提出されている。事件本人が医療扶助を受けたのは昭和四七年一〇月一日からであるから同年九月一六日から同月末日までの入院料及び薬価代請求書一枚がある筈であるのに当裁判所には提出されていない。同期間以前の医療費請求書の記載からして、同半月間においても入院料は六、九三〇円、薬価は少くとも二、〇〇〇円以上は要したものと考えられるので、同期間の医療費は八、九三〇円と認める。この認定事実および上記請求書等の記載によれば、申立人が立替えた代金は計二四万七、五七〇円でその月別の内訳は別紙計算表中昭和四六年七月から昭和四七年九月までの医療費の欄に記載したとおりであることが認められる。

第12申立人は事件本人のために、生活費、医療費のほかに、雑費として二〇万円を支出したと主張する。この二〇万円を事件本人が沖縄にいた七九か月で割ると、二、五三一円となつて五一円余る。事件本人は精神病者であるからその外出には附添を要したであろうし、また病状が悪化したときは入院或は通院にタクシーを利用したであろうことは容易に推測でき、また一件記録によれば、事件本人が沖縄と相手方のいる大阪市とを往来するについて申立人が度々その旅費を支払つたことが認められるので、申立人が事件本人のために、事件本人が沖縄にいた上記七九か月の間にその生活費や医療費のほかに毎月平均二、五三一円以上の雑費を支出したことを認めることができる。そして上記期間内において、上記雑費二〇万円を支出した時を認めるに足る証拠はないので、申立人は事件本人のために、生活費や医療費のほかに、雑費として上記七九か月の間に、別紙計算表中雑費の欄に記載したとおり毎月二、五三一円(最終の昭和五一年一月にはこれに五一円を加えて二、五八二円)宛の支払を余儀なくされたものとして計算することとする。

第13次に、相手方の扶養余力について考える。

1  調査の結果によれば、次の事実が認められる。

相手方は昭和二九年事件本人と結婚した頃、相手方の肩書住所で自転車に××を積んで小売店に卸して歩く××の卸商を始めたが、×の相場の変動がはげしく、経営不振を来し、昭和四二年に廃業した。昭和四二年までの収入は不明であるが、すべて生活費にまわして、世間並の生活は出来る程度ではあつた。

昭和四三年始めから昭和四六年末頃までは、○○として就職先を転々と変えたが、月収は約一〇万円位はあつた。昭和四七年始めから、×の解体、卸商を始めて現在に至つているが、月収は約一二万円位である。

(相手方の母ナツは、大阪市○○区××▲丁目▲番▲▲に宅地三五・八〇平方メートル、同所×番地×番地上所在家屋番号同町○○番○、木造瓦葺二階建居宅、床面積一階二五・二五平方メートル、二階二〇・二五平方メートルを、同父信彦は同所△番地上所在家屋番号同町△△、木造柿葺二階建共同住宅、床面積一階四九・五八平方メートル、二階四九・五八平方メートルを、それぞれ遺して死亡したが、未だ遺産分割はなされておらず、その相続人は、相手方を含めて九人であると考えられるので、これら不動産に対する相手方の取得分は僅かであるのみならず、その換金は容易でないと認められる。よつて、本件においては、これら不動産に対する相手方の取得分を直接の資源としては考慮しないこととする。)

2  上記事実によれば相手方の昭和三四年から昭和四二年までの間の収入額は明かでないが、世間並の生活が出来たことその他諸般の事情からして、この間は事件本人のために申立人が支出した別紙計算表<省略>記載の生活費、医療費・雑費の支払能力を有していたものと認めるを相当とする。

昭和四三年ないし昭和四六年までの間の相手方の収入は月一〇万円で、昭和四七年ないし昭和五〇年までの間のそれは月一二万円である。これで相手方と事件本人、長男信茂(昭和三〇年八月一日生)、三男信宗(昭和三二年一二月二四日生)、長女ノブ子(昭和三五年三月一九日生)、二女栄子(昭和三六年一一月九日生)の六人が生活しなければならないのである。労研方式によつて、この間の消費単位を相手方一三五、事件本人八〇、長男信茂昭和四三年、四四年八五、昭和四六年四七年九五、昭和五〇年一〇五、三男信宗昭和四三年四四年六〇、昭和四六年四七年八五、昭和五〇年九五、長女ノブ子昭和四三年四四年四六年六〇、昭和四七年八〇、昭和五〇年九〇、二女栄子昭和四三年四四年五五、昭和四六年四七年六〇、昭和五〇年八〇として、各年度における事件本人の生活費を算出すれば、昭和四三年と昭和四四年とは、いずれも月一万七、〇二一円、昭和四六年は月一万五、五三四円、昭和四七年は月一万七、九四四円、昭和五〇年は月一万六、四一〇円となる。事件本人が△△サナトリウムに入院したのは昭和四六年七月二四日である。相手方は月一万五、五三四円の割合で事件本人のために同年同月二三日までの生活費一万一、五二五円を負担ずみであるから、同月二四日から同月末日までの間において、相手方が負担し得る事件本人の生活費は残四、〇〇九円だけである。

上記各金額が、相手方において負担できる事件本人の生活費等の限度である。

この相手方の負担額を表にすれば別紙計算表<省略>中負担能方の欄に記載したとおりである。

第14そうすると、事件本人が那覇市にいて申立人から扶養されていた上記七九か月間及び事件本人が△△サナトリウムに入院していた昭和四六年七月から昭和四七年九月までの間に申立人が事件本人の扶養料として支出した額は別紙計算表<省略>中生活費、医療費及び雑費の各欄に記載した金額でその合計は同表中計の欄に記載したとおりであり、この内相手方が負担しなければならない額は同表中負担能力の欄に記載した額である。

相手方は申立人より先んじて事件本人を扶養しなければならないのであるから、申立人が事件本人の扶養料として支払つた毎月の金額が、相手方の毎月の負担能力の範囲内であれば、相手方は申立人が支払つた金額を不当に利得しているもので申立人に対して、その支払額の全額を償還しなければならず、申立人の支払額が相手方の負担能力を超えておれば、同負担能力の限度で、不当に利得しているものとして相手方は申立人に対し、償還義務があるものといわなければならない。

相手方の各月の償還金額は別紙計算表<省略>中求償可能額欄記載のとおりである。この欄の合計は金一五一万七、九一五円である。

第15沖縄県が日本に復帰したのは昭和四七年五月一五日であり、それまでは沖縄県においてはドルだけが使用されていたのであるから、それまでの間に同県において申立人が事件本人を扶養するために支出したのはドルであつて日本円ではない。そこで、上記日本復帰までの間に申立人が相手方のために立替えた扶養料を算出するには、申立人が同県において現実に支出したドルの額を認定し、これを当時の為替相場に従つて日本円に換算しなければならないものであるが、諸般の情況によれば、申立人が事件本人のためにドルによつて現実に支出した生活費等は、上記日本円によつて計算した生活費等とほぼ同じであることが認められるので、本件においては、すべて日本円のみによつて計算することとした。

第16申立人が相手方のために立替えて支払つた事件本人の昭和三四年六月から昭和五〇年一月までの扶養料中、相手方に償還の請求ができるのは前記のとおり金一五一万七、九一五円であり、申立人は相手方から、その中一万円の支払いを受けているので、これを差引き申立人は相手方に対し、残金一五〇万七、九一五円の償還を求めることができるものということができる。

第17申立人が主張する事件本人に対する立替扶養料について、相手方との扶養の順序及び相手方が負担する扶養の程度についての当裁判所の判断は上記のとおりであるが、本件で問題となつているのは、申立人が支払つた過去の扶養料についてであるから、これらを主文に記載する必要はなく、家事審判規則九八条四九条に則り、主文のとおり審判する。

(家事審判官 常安政夫)

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